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セユンの、テッキに対する感情について

キム・ヤンヒ監督は『詩人の恋』韓国公開当時のインタビュー(2017年)において、セユンの、テッキに対する感情は肉体的なものではないと語っている。また監督は、日本公開に際して行われたパンフレットのインタビュー(2020年)において、当初、脚本にテッキとセユンのキスシーンを入れていたとも語っている。二人の関係を同性愛に限定したくなかったため外したとのことだ。無理もないことで、現在の、比較的にリベラルな日本においてさえ、男性同士のキスシーンが存在すればそこばかりに焦点があたり、繊細な物語はたち消えてしまう。観客を選んでしまうということもあるだろう。ただ、(インタビューは通訳・翻訳を介しているため行き違いがあってはいけないが、)同性愛に限定したくないということであればすなわち、同性愛も含まれるということに他ならない。

本文においては、セユンの、テッキに対する感情、主に性的感情の有無について考察している。なぜ性的感情に拘るのかと疑問を持つ向きもあるかもしれない。多くの者が経験するあの、”いわゆる恋愛感情”であれば性的感情が含まれる(アセクシャルなど該当しない方がいるためこうした書き方になる。以降、「恋愛感情」を、性的な感情が含まれるものとして用いることをお許しいただきたい)わけだが、そこが曖昧になっており、私個人のことをいえば、そのピースが見つかったことではじめて物語がすんなりと心に落ちた。だから拘りたかった。

恋愛においては肉体的なもの/精神的なもの、どこを基準に分けるのか難しいところがあるが、本文には監督のインタビューと相反する内容が含まれる可能性がある(私自身はそう遠くはないと理解しているが)。したがって強い思い入れが創出した、ある種のファンタジーとしてこれを読み進めてもらえれば幸いだ。また念のため、下世話な興味本意で考察されたものでないことも強調したい。 

 
●ドーナッツ屋のトイレで性行為をしていたセユンだが、相手の女性が能動的でセユンが受動的だった。もってセユンが常に受け身でセックスをしているとは言わないがセックスにおける古典的な男女役割を厳格に守るタイプでないとみなすことはできる。それ以前に、”性欲を抱かないタイプの人”ではないことも解る。

●夜のプールのシーンの後、テッキは、ガンスンにセユンへの想いを綴った詞を読まれる。問い詰められ、セユンのことを告白する。ただし恋仲などではなく、単に面倒を見ているだけの不遇な少年として。しかしガンスンはテッキの恋心を見抜き不誠実を罵倒、妊娠していることを告げる。
後日、セユンはテッキに会い、病床の父親が食事をとらなくなった、テッキに会いたがっている、いつ家に来られるかと問う。テッキは、家に行くことはできない、ぼくらはいい友達になったと思うんだと返答する。するとセユンは小さく首を横に振り、「もてあそぶなよ!」と強く怒りの感情を顕す。

「友達」とはさまざまな関係を包含する寛容な言葉だ。ぜひ考えてもらいたいのだがこの場合、除外されるのは唯一、「恋人」ではないか。「友達になった」と言われ怒るということは?欺瞞を感じ、それが嫌だったのだ。すなわちプールサイドでテッキから傾けられたのは恋愛感情だったと認識しており、セユンも恋愛感情を持った、あるいは持ち始めたのだ。
パンフレットのインタビューにおいて監督は当初プールのシーンで、ヤン・イクチュンさんがセユンの手を握ろうとしたところ、太ももを握るように指示したのだと語っている。ヤン・イクチュンさんはそれを、より性的なニュアンスの強い行為として苦笑したそうだが、監督は、手を握る、ではなく、太ももを握らせたかったのだ。テッキからの恋愛感情に気づいていたのであればセユンはその手の意味をどう捉えたのだろう。そのうえでセユンは、「もてあそぶなよ!」と怒るのだ。

それからセユンはやや唐突に、無論本意ではないがテッキに金を要求した。これはどういう金なのか。「もてあそばれた代償」の意味もあるのではないのか。むしろそう考えるとすんなり理解ができる。

上記項目の考察はまじテッパンだと思っているのだが、これが正しければ、セユンはテッキとは異なり、自らの感情には戸惑っておらず確信的である点も気になる。年代的にLGBTに関する知識をテッキより持っていたのかもしれないし、あるいは、男性への恋愛感情に、実は馴染みがあったのでは?という可能性もよぎる。が、とりあえずそこはスルーする。

●セユンは父を亡くし葬式の後、テッキと二人きりとなる。セユンが、ぼくを憐れんで親切にしてくれるのかと問いかけ、テッキは否定、(親切にするのは)どうしようもない、仕方なくしてしまうのだと答える。セユンはテッキを見つめる。曖昧になったテッキの恋愛感情を確信した(ものと思われる表情をする)。
その後、別の部屋で布団の中、泣いているセユンの肩にテッキが手を置く。観客は何かが起こる予感を持ったはずだ。しかしそこにガンスンが現われ、途絶。セユンはその表情や態度に失望を顕していた。ここはぜひみなさんにも再度確認をしてもらいたい。顕していたから!(笑)

●さてこの流れで最大のミステリーは、セユンという(男性に恋愛感情を抱いた経験がある/ないという描写が存在しない、普通に考えればストレートの)うら若き青年が果たして、「もっさいおじさん」であるテッキに恋愛感情を抱くのかどうか、ではないだろうか。

実を言えば、私もずっと引っかかっていた。セユンの、テッキに対する感情。私自身は、テッキが可愛いという入口からこの「詩人の恋」にはまった。それは恋愛感情であるといっても過言ではない。にもかかわらずセユンがテッキに抱いた感情について、「家族/友達が欲しかったのか」などと思い巡らせていた。
「詩人の恋」は韓国において2017年に公開されており、日本においても、同年の東京国際映画祭に招待されている。英語字幕であるがDVDも発売されている。(優秀な)予告トレーラーでのテッキはあまりに可愛らしく(本編はもっと可愛らしい)、公開を待ちきれず、私はつてを頼って英語字幕で視聴を済ませてしまった(もちろん映画館にも足を運んだ。二回)。それほどまでテッキが可愛らしいというのに、セユンの感情をつかみかねていた。
テッキ可愛い/セユンの感情が解らない。可愛い/解らない、これをワンセットとし地獄のように繰り返した結果、閃いたのは、「や、セユンも、私と同様、あるいは半分くらいの熱量でもテッキを可愛いと感じたんじゃね?」だった。私とセユン、人類という意味では同じカテゴリーに属する。決してふざけているわけではなく、私は、ゲイとストレートをあまりに隔たった存在として捉えすぎていたことを反省した。可愛いを自明としないまでも端緒とし、なんだか愛おしい、触れられたい、キスしたい等の、性的な感情が生まれたのではないか。このレベルを肉体的なものと評価するか否かは議論の分かれるところであるが…。

若き天才、ゲイであることをカミングアウトしているグザヴィエ・ドラン監督は『詩人の恋』の一足先に公開された『マティアス&マキシム(※)』のインタビューにおいて、こう答えている。
「人は感情を揺さぶられてから魅力を感じる」
「”魅力”じゃないな」「何て言えばいいんだろう」
「欲望の方が正しいね」
同意する。セユンは、テッキから傾けられる恋愛感情に気が付いて感情を揺さぶられ、魅力を感じた、いや、欲望が生まれたのではないか。

※マティアス&マキシムでは、友人のストレート男性ふたりが罰ゲームのようなキスをきっかけに恋に落ちる。現在のところユーチューブでそのインタビューは公開されている。
https://www.youtube.com/watch?v=gQ1i8utZxMU

先ほどテッキを形容するもっさいおじさんを鍵括弧でくくったのは、 分裂した感情があったからだ。それは、"世間"に対してはテッキがもっさいおじさんで通じると想定したのに対し、私自身は可愛い、いや、深刻に可愛いと感じているということだ(ネット上に多くの思いを同じくする若い/大人の男女が存在した)。こんなにもテッキ愛にあふれた"私の中にある世間"さえ、「もっさいおじさん」と捉えたのだ、”観客や映画製作側、それ以外の人々の中にある世間"も同じように捉えたのではないか。セユンからの感情をあからさまに恋愛感情として描くとリアリティを欠くと考える者は少なくないように感じる。ドキュメンタリーであれば個別ケースとして十分許容されるがフィクションであれば一定の普遍性(あるいは説明。時に説明は野暮ったくなり、美しい世界観を壊すことがある)を備えることが必要となる。ここでの”世間”は常識とも言いかえられるが、ストレートの青年、セユンが「もっさいおじさん」、テッキに恋愛感情を抱くはずがない、と。

微力ながら、誤った常識に肘鉄を入れるため、私にはだから、「テッキが可愛い」と声高に叫ぶ理由があったのだ。
 
私は、セユンがテッキに対して恋愛感情を抱いたのだと考えている。

これがFAだ。

みなさんも機会があればぜひ映画を見直して、それぞれの物語を感じてもらいたい。


●最後にテッキの、セユンに対する感情について触れておく。この理解は容易だ。テッキは不妊治療のため病院で何度か精液を採取されてきたが、セユンを想像した時に普段よりも多くの量が排出された。コメディー色の強いシーンであるが、テッキに同性愛的指向と呼んでよいものが存在することが象徴的に表現されている。定量的に、医学を実践する現場において、だ。このくだりが存在しながら、「セユンに対して恋愛感情を抱いていなかった」は成立しないだろう。

年齢の離れた男女の関係が、「父が娘に向けるような」「兄が妹に向けるような」「母が息子に向けるような」「姉が弟に向けるような」感情で始まったとしてもいずれそれは恋愛(もっと丁寧にいえば恋愛を含んだあらゆる愛情)と理解され、皆、腑に落ちる。であるなら、テッキはセユンに対してシンプルに恋愛感情を抱いたとしてよいはずだが疑惑のまなざしを向けられるのは一体なぜなのか。それはテッキ自らが下した決断にも関わるだろう。
 
セユンと会わなくなった後、テッキはセユンの父親の役割を担うことを腹に決めた。
キャッシュカードの暗証番号をセユンの父親の命日にしたのも金をセユンに渡すためだ。
しかし最後に暖かく頬を伝う涙で、あれは恋だったことをテッキはいたくつきつけられるのだ。

以上


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「やや謎なシーン」について

テッキがドーナッツ屋で詞を書いており、窓の向こうでおじいさんがよたよたと歩いている。テッキはおじいさんを目で追っていく。そして「母のいない空の下と書き」と詞のフレーズを思いつきつぶやく。するとおじいさんに、息子くらいの年代の男性が歩み寄る。彼はおじいさんの首に巻いたマフラーがずれているのを直して、介助するように腕を組んで歩いて行く。テッキが眉をひそめ不思議そうな顔をしていると「おじいさんも孤児か」というセユンの声が聞こえる。
このセリフはテッキがセユンに惹かれ、また、滞っていた詩作が流れ始めるきっかけともなる。

といった具合に、このおじいさんは大切なセリフ、「おじいさんも孤児か」を言わせるための登場人物といえるのだが、では、あの息子らしき男性はなぜ登場したのだろうか。
孤児というのなら、おじいさんのみである方が理解しやすい。
やや謎である。

私は、このおじいさんと、息子くらいの年代の男性が、恋人同士なのではないかと考えている。

このおじいさんの役割を"「おじいさんも孤児か」というセリフを言わせるきっかけ”なのだとみなすと、それ以上の意味を追及しないのが人間心理だ。布が一枚掛かって見えなくなる、見なくなる。

画面はドーナッツ屋のセユンのアップのままで、詩人たちの集まり、深緑の森の会におけるテッキの朗読、「母のいない空の下と書き」が聞こえてくる。ドーナッツ屋のシーンと、この朗読のシーンは繋がっていることになる。その後、詩人たちのニューイヤーの宴会の場面となり、女性の詩人から、「Welcome to real world」、ようこそ現実世界へと言われ乾杯をする。
ここではじめてシーンが切り替わる。テッキが自宅で、ドーナッツ屋へ行くためにマフラーを選んでいる姿が映される。
私にはこのマフラーが、おじいさんが着けていたマフラーとリンクしているように感じる。

みなさんはすでにお気づきのことと思うが、おじいさんと男性の年齢差はテッキとセユンの年齢差とちょうど同じくらいだ。 


セユンは父親を亡くし、葬式の後、母親と決定的な喧嘩をする。テッキはそんなセユンを連れて先祖代々が使っていた建物にいく。食事を用意し、まさに「孤児」となってしまったセユンに対しテッキは、自分は大した器の人間ではないが、辛い人にどうしてあげればいいのかは知っている、たった一人でもその人に寄り添ってあげることだ、そうすれば人は崩れ落ちないと言う。

物語の中で、「一緒に行こう」という言葉が、二回の異なったタイミングで互いから交わされた。もしもテッキとセユンが一緒に暮らす選択をすれば誹りや罵倒に晒されることだろう。親戚はおろか、友人とさえ縁が切れるはずだ。もちろんガンスンや子どもには大変な苦労をかけることになる。だが、ただ一人、テッキの母親は、テッキとの会話から推測するに、二人の味方でいてくれるように思う。年を取れば男も女も関係ないなどのセリフもきかれた(私の記憶が正しければ)。しかし年月を経て、その母親を亡くすと(母のいない空の下)、セユンが父親を亡くしたときと同様テッキは「孤児」になる。そして今度は、セユンが若い頃にしてもらったように、テッキを支えていく。

このおじいさんが歩いていくシーンはそんなことを暗示しているのではないか。
おじいさんは恐らく80代、男性は60代くらい。この年齢まで一緒にいるとなると、添い遂げたといって相違ない。この映画の中でテッキとセユンは一緒になることはなかったが、つまり男性同士の関係であっても当然、成就しうるのだということを監督は伝えたかったのではないか。そしてテッキがセユンに恋をした瞬間に、二人にその姿を、もう一つの未来として見せたかったのではないか。

https://www.youtube.com/watch?v=yjIcFvEWfZA&fbclid=IwAR1w2QB2rxoqk0GbtlDmbLV2lm-ENsvTTHHl_FerWQSrDL0RHaKBnKjnBqI
たまたまだろうか。この動画内でヤン・イクチュンさんは、「映画の中にあらゆる物語が隠れている」とコメントしており、その後に本編映像が数分流れるが、それはこのおじいさんが歩いているシーンなのだ。

以上

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最後にもう一つ、「触れたいこと」

一通り書いたのですが、読むと重い気持ちになるかもしれないです。
というのは、これに気付いたら、私はかなーり重くなったんで。冗談でも、大袈裟に言っているのでもないです。    
「気付いた」と書きましたが、 私の解釈が必ずしも正しいわけではないですし、ずいぶんと長い文章を読んでお疲れになったと思いますのでこれにて終了、ブラウザを閉じてしまった方が良いかもしれません(まじで)。
気が向いたときにいつでも戻ってくればいいだけのことですし、万が一、このコーナーを閉鎖したとしてもメール(捨てアド可)をいただければ何らかの方法で読んでいただけるようにいたします。


まあそんなこんなで今、重い気持ちになっても大丈夫だよという方は、お読みください。



















最後にもう一つ「触れたいこと」とは、"セユンの父の亡くなり方"と、テッキとの関わりだ。

セユンは、父さんに何か言った?父さんがものを食べなくなったとテッキに尋ねる。
セユンに対する感情的混乱のなかにあったせいだが、結果としてテッキはその質問に答えていない。
その前の方のシーンで、テッキは、セユンの父から、死にたいのだと告白されている。
自分がいてはセユンが自由になれないからだ。
テッキがまさかその時(あるいはその後)に、「ものを食べなければ死ねますよ」と云ってはいないと信じているが、「死にたいという告白」があり、「ものを食べない」ということはつまり、セユンの父が、食事を拒絶し、セユンのために死のうとしていることは容易に想像ができる。
死ぬために食べないのだ。
テッキはセユンにそのことを伝えていない。
セユンとはこの後、仲たがいをして会わなくなってしまうのでハードルはあるが(再会するのはセユンの父の葬式だ。…テッキの言動は、セユンの父の死因が解っているようだった)、何かしらの手段で「告白」について伝えていたら、早い段階で、”死ぬために食べぬ者”に対する医療的ケアを施せたはずだ。
いずれにせよテッキはセユンの父の「意向」に協力したことにはならないか。セユンのために。

「可愛らしいテッキ」で終わりたかったからあまり考えたくなかったのだが…、
しかしそれほどまでに強い意思があったからこそ、妊娠した妻を捨てるという、世間からは許されない決意に繋がったのではないか。

※セユンと仲たがいして会わなくなった間、テッキはセユンとの関係について悩み、酒を飲んで愚痴をこぼし、バスでドーナッツ屋の前を通るたびに切なそうにしている。なので、セユンの父のことについて考えが及ばなかったという可能性はある。
ただ、それでも、「父さんに何か言った?」というセユンのセリフが気になるのだ。
あのシーンは、"何か言っていないまでも、その延長線上にあること(不作為)を実行した"のだと暗示しているように感じる。

つまり、テッキには、セユンに対して、それほどまでに激しい情熱、愛情があったのだ、と。さらにいえば、”人が変わるプロセス”というのはきれいごとではないのだ、と。


以上


 

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