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​コーヒーに蜂蜜

 コーヒーメーカーでいれた、最高に苦味のきいたコーヒーに、モトキはスプーンいっぱいの蜂蜜を垂らす。今日みたいによく晴れた朝には、カップの上で金色の糸が輝き揺れるから、夜勤明けで栄養切れのぼくは人差し指ですくって舐めてみるのだ。微かに酸味のある強烈な甘さ。桜の蜂蜜だ。何の反応もなく、視線さえも向けずにモトキは、コーヒーをスプーンでかき回す。鼻歌交じりに。首筋を掻きながらぼくは、テレビのスイッチを入れた。モトキはコーヒーを飲む。蜂蜜入りのコーヒーはどんな味がするのかぼくは知らない。テレビ画面には朝のニュースで西新宿の高層ビルの壁をよじ登る、スーツ姿の中年男が映し出されている。年のころは54、5歳だろうか。紺色のスーツに少々薄くなった頭頂部。風で揺れる黄色いネクタイ。顔がちょっとタモさんに似ている。どのチャンネルもアングルは違えどすべて緊急生中継、イン西新宿であった。レポーターによればてのひらと膝になにか吸着力のある吸盤みたいなものを装着しているそう。スパイダーマンみたいな奴だな。名前は「新谷小鉄49歳。世田谷区在中。会社員」。レポーターがさっそくインタビューをして近所のひとが「愛想のいい、大人しい方ですよ。優しいお父さんといった感じでしたが」などと答えている。コメンテーターたちは「自殺をするのだろう」「リストラ」「この年代の男性は危機に直面し突然、うつ状態に陥ってしまうことがある」「うつが反転して突発的な行動をとってしまうことがある」などとのたまう。視聴者はきっとテレビに釘付けだろう。朝っぱらから内臓は見たくないはずなのに。
「な、明日はどうする?」
 モトキが尋ねてくる。
 明日、明日。テレビに目をやり眠気と戦いながら、明日はどうしようかと考えた。あれ、明日、出社だっけ、休みだっけ? ていうか、明日っていつだ。夜勤をしていると一日と一日の境が不明確になって困る。えっと、今夜、出社する。で、明日が休みだったか、それとも明後日が休みだったか。ん~?と悶えながら考えていると、テレビのなかで会社員が叫んだ。
「未来へ告ぐ!」
 アップになると口元に集音マイクのようなものが確認できる。肩からかけているのはカバンのように見えるが実はスピーカーなのだろう。角張って重量感がある。
「未来へ告ぐ!」
 もう一度、叫んだ。
 えっと、今日、これから寝るだろ、それで夜に出社して働いて帰ってくる。ん、ああ、そうか、明々後日の夜からシフトが入っているわけだから、ええと要するに明日は休日前ってことだな。んで、モトキは明日が休みなんだな。
「明日ね、どうする?」
「おまえさー、きっと眠いと思うからさー、映画とかいいんじゃない? 寝てて、さ。おれ、見てるから」
「あー。んー。まーいいけど、でも、風邪とかひくとまずいんだよね、いま時期的に。仕事つまっているし。ほら、映画館って埃っぽくないかな?」
「うんうん。だからさ、あれ買っといたの、あの、立体マスクってやつ。いいよ、あれ。つけてると保湿になってさ、喉に」
「ふーん」
 じゃあ、まあ、いいかな。それで。映画館で。
 会社員はビルの真ん中ほどにまで到達していた。アナウンサーによると二十階近辺とのこと。ビルの窓の向こうで警官が身振り手振りを駆使して説得を試みる姿が映し出される。会社員は無表情のまま方向を変えてするすると上へと進んでいった。なんか面白いな、この人。モトキはコーヒーをすすってから、「なんの映画、見る?」と尋ねてくる。どうせ眠っているからなんでもいいやと思いながら静かなやつがいいなと言うと、「耳栓も買っておいたよ」と袋を指さした。そうか、じゃあ、いいや、うるさいやつでも。映画館で耳栓をして眠るなんて、極上に贅沢な気分になるだろう。カラオケボックスで報告書を書き上げて以来だ。
 だんだんわくわくしてきた。
「我々が!」
 テーブルの上に頭を落としてテレビを見つめる。
 朝の陽射しは清涼だ。
「語る言葉は!」
 うるせーよ、おやじ。
「すべて!」
 モトキが腕時計をつける。髪を手櫛で整えた。出社五分前。コーヒー入りの蜂蜜は残っている。
「未来へと繋がっている!」
 コーヒーに蜂蜜を入れると幸せになるんだと言ったのは認知症がかなり進んだモトキのおばあちゃんだ。背筋がぞっとするほどしわくちゃの顔で穏やかに一点を見つめていた。ぼくらの関係は肉親には内緒だったのだけれど、認知症なのをいいことに、モトキのおばあちゃんにだけはこっそりと挨拶に行った。こんにちはと言ってもおばあちゃんは無反応。「これからモトキと一緒に暮らすことになりましたのでよろしくお願いします」、と頭を下げるとぼくの頭に手を置いた。それから、おばあちゃんはつぶやいた。「コーヒーに蜂蜜を入れると」。ぼくが「ん?」と尋ねるとおばあちゃんは、「幸せになるんだよ」と続けて、すると、モトキはすごく吃驚してそれから泣き出して、うんうん、ありがとう、ありがとうね、おばあちゃん、と染みだらけの手の甲を何度も撫でた。肉親とあまり強い絆を持たないぼくにはぴんと来ない光景ではあった。
 おばあちゃんは三ヵ月後、亡くなった。
 ゆっくり目を閉じる。「おばあちゃん」とつぶやくと、モトキがぼくの頬を指先で二度叩いて、行ってくる、と言う。うん、とぼくは目を閉じたまま言う。手の甲を枕にすると頬がどんどんめり込んでいく。テレビから大爆笑が聞こえた。夢かどうかよく解らないんだけれど、会社員のスーツが真ん中から裂けて白いフンドシをひらひらとさせたのだ。フンドシには赤字で「エロティック・パフォーマー」と書いてある。なんだパフォーマンスだったのか、良かった、人騒がせなやつめとぼくは、まどろみのなか、ひとりつぶやくのだった。 

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